春ですよ、と彼女は言った。
「春ですよー」
暦の上では今日から春である。とはいえ今年はどうも春の巨人さんは足踏み気味のようで、冬のしびれるような寒さはなくなったものの、まだまだ寒い日々が続いている。
「春ですよ、岡崎さん、起きて下さい」
この部屋の主、岡崎朋也はそのほんの少しの温かさだけでも幸せを感じるらしく、安らかな顔で布団に包まり眠り続けていた。春眠暁どころか黄昏すら覚えず、とでも言うかのごとく眠り続けていた。四月の頭から仕事が始まるのだ、今のうちにエネルギーを貯めようとするのは決して間違いではないはず。
その考えのもと惰眠をむさぼる朋也は、カーテンの隙間から射す光が顔にあたろうが、傍らに現れた少女が揺り起そうとしようが、全く反応することはない。
「岡崎さん、岡崎さん……むぅー」
例年ならば冬の時期は悪友、春原陽平の部屋に入り浸り、カタツムリのごとく炬燵を背負って寒さをしのぐのだが、今年、彼は冬休みが明けてから就職のために実家に帰ってしまい、その手段が使えなかった。故に朋也は暖房器具などという文明の利器のない寒々しい部屋で布団にくるまってひたすら寒さに耐えていたのである。
その彼がやっと聞こえ始めた春の足音に安らぎを感じ、必要以上にエネルギーを蓄えることを批難出来る者がどこにいるのだろうか。
「えいっ」
ここにいた。
「いって……なんだてめゴルァ! 俺の安眠を返せ!」
「やっと起きましたか、岡崎さん。手間をかけさせないでください」額に手を当て、やれやれとばかりに首を振る少女。もう一方の手には彼の頭をかち割る勢いで叩いた星型の彫り物が握られていた。
朋也は、見知らぬ少女のその様子に青筋を立てたが、その手に握られた彫り物を見るとなぜだか懐かしさを感じて怒る気をなくし、まじまじと下から上まで彼女を見つめた。
嫌味にならない程度に桜色の模様が描かれた白地のワンピースを黒い腰帯で結わえ、その上に同色のケープを羽織り、背には半透明で、桜色にも見える羽が二対生えていた。さらに頭の上には同じような意匠の大きな三角帽子が乗っており、艶やかな黒髪、つぶらな黒い瞳と相まってその姿はさながら春の妖精のようだった。
見つめていたのも、時間にして数秒程度のもの。朋也は、見とれていたとも取られかねない状況を疑問をぶつけてみることで打開することにした。
「で、あんた誰」
その言葉を聞いた瞬間、少女は僅かに、ほんの僅かに瞳を悲しげに揺らした。朋也はその様子にどうしようもない胸の痛みと罪悪感を覚えたが、一瞬にして元の真顔に戻る彼女を見て、見間違い、気のせいだと結論付けて言葉を待つ。
「風子は春告精の風子=ホワイトです。今日はよろしくお願いします」
彼女は胸の前で両手で彫刻物を持ち、ぺこりとお辞儀をしながら名乗る。
風子。その名前に何か引っかかりを覚えた朋也は腕を組んで俯き数秒間考えるが、結局何も思い出せずに顔を上げ、俯いている間身じろぎもせずにこちらをじっと見つめていた彼女に向けてさらに質問を重ねた。
「春告精ってなに」
「読んで字のごとく春を告げる妖精です」
「人間に見えるけど。普通に触れるし」
「この羽が見えませんか。というか触らないでください。セクハラですか、最悪です」
「頭くらいいいじゃねぇか……つかその羽プラスチックじゃねえのか。まぁいいや、次。本日はよろしくってなに」
「岡崎さんは現地協力者に選ばれました。ちなみに拒否は不可能ですので」
「断る。つか、だりい」
「ちなみに断った場合、呪いが降りかかります」
「え、なんだそれ妖精こわい。……まぁいいや、大したことなさそうだし。次。その衣装はなに」
「春告精のユニフォームみたいなものです」
「ふーん……次。その彫り物は……ヒトデ?」
「わかりますか。岡崎さん、流石です。このキュートかつぷりてぃな物体は……」
「……おーい」
トリップしてしまった彼女を何とか現実に引き戻し、先ほどの回答から朋也は結論を出した。
「あー……何故か多いんだよな、この時期」
頭が春な奴が。結論:こいつは頭がおかしい。
口に出すには失礼すぎるものである。その様子に風子はムッと眉を寄せる。
「なんだか失礼なことを考えられている気がします」
「……いやまぁ、つーかそんなこといきなり言われても信じられねーって」
確かに、説明されたことは、科学による実証が何にも勝る現代社会に於いては眉唾ものの話であった。朋也が信じられないのは無理もない。
言ってしまってから、朋也は内心慌てた。今言われたことを否定する、ということは自称非常識な彼女の存在自体を否定するということである。怒られたり、悲しまれたりしても無理はない、というか頭がアレな人は得てしてキレやすいものだ。暴れられたらどうしよう。こんな年端もいかないように見える少女を力ずくで抑え込むのは苦ではないだろうが、なんだか犯罪臭がぷんぷんする。
恐る恐るに目の前の彼女に視線を遣る。しかし、風子は大して気にした様子もなく、やれやれと頭に手を当ててかぶりを振るのであった。
「岡崎さんは常識にとらわれすぎです。良いでしょう、ええと……論より証拠というやつです。ついてきて下さい」
それだけ言ってとことこと部屋から出て行ってしまう。朋也はすぐについていこうとしたが、未だ寝間着姿であることに気付き、風子に声をかけてから着替え始めた。
ジーンズにシャツ、その上にパーカーというなんとも適当な格好をした朋也は風子の後について廊下を歩き、階段を下りる。
「で、どこに行くんだ?」
「台所です。春を待っている者たちが大勢います」
「台所……?」
何かあったけか、と朋也は首を傾げる。が、行ってみりゃわかるだろ、と考えそれ以上悩むのをやめた。
途中通りかかった洗面所で顔を洗い、台所に着いた。一目見るだけでしばらく使われていないとわかるほど薄汚れたガスコンロ、シンクには溜まりに溜まった洗い物の山が形成されており、底の方には濁った水が淀みを作っていた。
我が家ながらこれは酷いな、と朋也は苦笑を漏らした。
それに反応するように風子が振り向く。文句でも言われるかな、と思ったが、風子は台所の惨状など気にとめた様子など全くなく、真剣な表情で口を開いた。
「それでは岡崎さん、よく見ていてくださいね」
頷く。正直なところ、朋也はこれから何が起こるのかと少々楽しみでもあった。ひたすら寝ているだけの生活にも飽きがきていたし、暇つぶしにでもなればいいか、くらいの感覚ではあったが。
そして風子はおもむろに四肢を伸ばし、大きくはないがよく通る声で言う。
「春ですよー!」
そして踵を返し、ダッシュで玄関の方へ向って行った。その様子を呆気にとられてポカンと眺めていたが、角を曲がって風子の姿が見えなくなった辺りで、何か妙な音がするのに気付いた。
「何だこの音……?」
それは、紙くずが風に飛ばされた時の音をもっと小さく、そして音源を多くしたような音だった。
擬音にすると、カサカサ。
「まさか……」
その音に言葉にできない嫌な予感を感じ、冷や汗を流す朋也。
ついに台所の方に視線を戻した。そして、見てしまった。
「うぁ……ッ!」
黒い津波を。
「うおあああああぁぁぁ!」
黒い津波。黒い稲妻の集合体。つまりゴキ○リの大群。
朋也は踵を返し、叫びながら走った。この小さい家、いつもならば短い廊下に溜息でも吐きたいところであるが、この時ばかりは小さい家に心の底から感謝した。
そのまま玄関まで駆け抜け、慌てながらもなんとか靴を履いて外に駆けだす。
「これで信じてくれましたか」
玄関のドアを素早く開けてすぐ閉めて飛び出てみればそこにしれっと佇む風子。その目の前で膝に手をついて息を整え、滝のように流れていた汗を拭う。
「信じた、信じたからアレを何とかしてくれ」
アレはトラウマものだった、と先ほどの光景を思い出して朋也は震えた。迫りくる黒い津波。呑まれてしまったらどうなるのか、想像したくもない。ぞわぞわと鳥肌が立つ。
しかし、風子はそんな朋也の心からの嘆願をはねのける。
「そして抑えるのは無理です、風子は春を告げるしかできませんので。まぁ、目覚めて興奮しているだけですから、三十分もすれば落ち着いていつもの状態に戻るでしょう」
最初の一言に顔を真っ青に染めた朋也だったが、最後の言葉で救われた。
そして、早いところこの家を出ねば、と決意を新たに、居間でまだ寝ているであろうクソ親父にそっと手を合わせるのだった。
――――――――――――
陽も高く上り日差しは暖かく降り注ぎながらも、風はまだまだ冷たい。
そんな中、二人はどこへ行くともなく並んで歩いていた。風子は、春ですよー春ですよー、と大きくも小さくもない声を発しながら歩き、朋也は、その言葉に反応するように、風もないのに震える枝、ほんの少し色鮮やかになる花のつぼみ、澄んだ鳥のさえずり、パンを咥えながら曲がり角で走り衝突する男女、上がる悲鳴を彼女の横で見聞きしながら、時に目を奪われ、時に感心し、時になんとベタなっつか春ってこの意味も含まれてるのかと呆れ、時に先ほどの事態を思い出して震えながら歩いていた。
流石にあれだけの光景を見せられれば風子が春告精であるということを信じないわけにもいかず、それに加え、断った時の呪いってまさかアレの類か、と思い至ってしまった彼には協力の要請を拒否すると言う選択肢は無かった。小さくため息を吐く。
でもまぁ、とすぐ横を歩く少女を見る。
風子の隣は、まるで元々そこにいたかのように落ち着く。
その感覚を不思議に思いながらも、天気もいいし、嫌々ながら始めたけど寝て一日を過ごすよりはましかもな、と首を鳴らそうと勢いをつけて首を捻った。寝過ぎで凝り固まった関節からは破滅的な音が出た。
「わっ、すごい音がしましたっ、ゴキゴキって!」
「ゴキって言うな!」
どうやら、傷は深いようだ。
「気にしすぎです、岡崎さん。小心者にもほどがあります」
「いや、目覚めさせるだけ目覚めさせといて速攻で逃げた奴が何を言う」
「そんなだからなかなか就職も決まらなかったんです」
「無視か。つかなんでお前がそんなこと知ってるんだよ」
「春告精調査班が一晩でやってくれました」
「俺のプライバシーはどこへ行った」
噛みあっているのかいないのか、言葉を交わしながら街中を練り歩く。ところで、と朋也は一旦言葉を切った。
「さっきからなんだか視線を感じるんだが……」
歩いているのは長閑な住宅街の中。それでもまだまだ寒い中井戸端会議に精を出す主婦らしき人々やセールスマンらしきスーツを着た者などが見受けられ、彼らは一様にこちらに視線を投げかけてはひそひそと言葉を交わしたり、目を合わせないようにそそくさと去って行く。横にコスプレのような格好をした少女を連れて歩いていれば当然か、と思い、その格好を何とかしてほしいという願いを込めて話しかけた。
「そうですね。岡崎さんは変な人ですからね」
「いや、原因はお前のコスプレもどきだろうが」
その言葉を聞くと、風子はきょとんとした目を朋也に向けた。
「風子は岡崎さん以外には見えないはずですから、それはあり得ません」
「……待て、初耳だぞ」
「言ってませんでしたか?」
普通の人には見えないということは先ほどからの非常識な現実からして本当のこと。だったら俺は頭が春な人だと思われたのか。朋也は額に手を当て、アウチ、と天を仰いだ。
「正直、街中で話しかけてくるなんて度胸あるな、と思ってました」
そう言うことは早めに言ってくれ、と思ったがこれ以上変人に見られたくないので言葉を飲み込む。
色々言いたいことはあったが、ぐっと我慢して歩を進める。春ですよー春ですよー、という言葉だけが辺りに響いていた。
そして風子の気の赴くままに歩き続けて十分程度たった頃、前方に見知った背中を見つけた。
腰のあたりまで伸びた紫色の髪を揺らしながら、春もののコートを着て、トートバッグを肩に下げて歩いている。一月末ごろまでは毎日のように顔を合わせていたが、自由登校になってからというものとんと彼女と会う機会がなかった。小走りに近寄りながら、幾分かの懐かしさを込めて少し大きな声でその名を呼ぶ。「杏」
名を呼ばれた彼女は何の表情も見せずに振り返ったが、朋也の姿を見た途端に表情を明るくし、その場に立ち止まって朋也を待つ。
「久しぶりだな」
「そうね、久しぶり。元気してた?」
「いや、やることもないしずっと寝てた」
「うっわ、近寄らないでよ、ニートが感染ったらどうすんのよ」
「充電期間だ」
「ニートってみんなそう言うのよね」
「違いない」笑いあう。二か月程度会っていなかっただけだが、その期間は二人に懐かしさを感じさせるには十分だったようだ。
「で、お前はこれからどこに?」
「大学のガイダンス。もうこんな時期からあるのよ、信じられる? はぁ、面倒にもほどがあるわ」
「まだ三月末なのにか? 案外忙しいんだな、大学って」
「そうなのよ。意外と、ね。まぁ、自分で決めたところだから文句は言えないんだけどさぁ……」久々に会った親友ともいえる二人の言葉のやり取りが尽きることはない。
杏は駅に向かうようだ。朋也は、自分たちはどうするか、とちらりと風子を見やったが、特に気にしていない様子で後ろに付き従っている。杏に付き合っても問題はなかろうと考え、同行することとなった。
くだらないことを話し、時に冗談を飛ばしながら駅に向かう。「春ですよー」
風子の言葉がひときわ大きく響いたのはそんな時だった。
「きゃっ」
「杏? どうした」唐突に杏が小さく悲鳴を上げ、屈みこむ。朋也も歩を止めた。
「あちゃー……最悪、ヒール折れちゃった」
「あー……よくわからんが、災難だな。どうすんだ?」
「さすがにこのまま大学、ってわけにもいかないし。一回帰るしかないわね」
「春ですよー」やってらんないわ、と呟きながら杏が立ちあがったところで、もう一度風子が言葉を発する。ぽきり、とどこか間の抜けた音が再度響いた。そしてさらに。
「春ですよー」
ぐきり、と嫌な音。
「いったぁ……足ひねった……」
「おいおい、大丈夫か?」立ち上がろう力を入れたところでもう一方のヒールも折れ、そのため妙な方向に力が杏の足に加わった。
杏に声をかけつつ、一連の出来事が風子の仕業だと感づいた朋也はさりげなく批難の視線を送るが、風子は相変わらずの無表情で見返すのみ。
朋也はその様子に内心ため息を吐きつつ、足首をさすりながら蹲る杏に背を向けてしゃがんだ。「ほれ、乗れよ。負ぶってってやるから」
「え……や。何とかなるわよ、このくらい」
「なんともならんだろ。肩貸すにもヒール折れてるんじゃ辛いだろうし」
「……いや、でもそのー」妙に渋る様子を訝しんでちらりと背後を見てみれば、顔を赤らめながら、あー、だの、うー、だのと視線をあちこちに遣る杏の姿。このままではいつまでも話が進まないと考え、朋也はさらに近寄って多少強引に杏の手を引いた。
「いいから乗れって」
あ、と小さく声が漏れたが、聞こえないふりをして手を前で組ませる。意外と抵抗はなかった。
そのまま腿に手を回して立ち上がる。色々と柔らかい感触はこの際無視した。ひたすら無視した。頑張って無視した。でもちょっと感動した。「あ……う……」
「行くぞ。まぁ、適当につかまっとけ」しかしそんな煩悩じみたことはおくびにも出さずに、意味不明の言葉を呟き続ける杏から方向を聞き出して歩き始めた。
藤林家までの道のりはしばらく来た道を逆にたどるもの。であるから、長話が得意分野の井戸端会議中のおばちゃんたちは当然のように未だ道端の一角を陣取っている。そして一瞬こちらに視線を送ってきたかと思うと、また会話を始めた。
なにあの子さっきブツブツ言ってた子よねええそうね井上さん間違いないわどういう事態なのかしらあれてゆーかあのおんぶされてる子彼女かしら変質者の彼女なんてかわいそうねぇ。
何やら憐みと興味が入り混じった視線が向けられるが、どうしようもないと朋也は諦めた。後ろについてくる風子はまた春ですよ―春ですよーモードだし杏もさっきから何にも言わねーし色々柔らかいせいで無駄に緊張するし、どうなってんだ畜生空気が痛いんだよ。「……朋也」
「ほっ!?」
「……いや、そんなびっくりしなくても」と思っていた矢先にだんまりを決め込んでいた背中の杏がおもむろに口を開いた。
「な、なんだ杏。道でも間違えたか?」
「しばらくまっすぐで合ってるわよ。それよりも……朋也、重くない?」
「は? ……いや、別に。つかお前ちゃんと飯食ってるよな? 軽すぎじゃねぇ?」
「……そう?」
「ああ。つか、女子って皆こんなもんなのか?」
「んー……そうね、私で普通位じゃない? でも、そっか。軽いか……」ふふ、と幾分か上機嫌に笑みを漏らす杏に、女子って大変だなー、とぼんやり思う。
その後は杏も調子が戻ってきたようで、会話は止まらない。「そーいえばお前、一回帰って間に合うのか?」
「さっき友達に遅れるから資料余分に貰っといてってメールしといたから平気ー」
「ああ、さっき背中でカコカコやってたのはそれか。つか、ケータイ買ったのな」
「そ。このご時世だしねー、頼んだらあっさり買ってくれたわ。料金はバイト始めたら自分で払うけど。あ、そこ右」
「あいよ。それにしてもケータイか……俺も仕事始まったら買うことになるんだろうなぁ」
「あー、そっか。仕事いつから? で、そこ左。もうそろそろね」
「はいはい。四月の頭から。さて、どーなることやら」
「あはは、頑張んなさいよ、社会人。給料出たら奢ってね」
「ま、少しならいいぞ、しばらくは金欠だろうから無理だが。肉体労働な分、高卒にしちゃ給料多いし」
「妙に気前いいわね……何か企んでない? そこもっかい左。で、まっすぐ行ったら右手に見えてくる」
「あいさ。んな飯ぐらいで釣られるお前でもあるまいて」
「そりゃそうね。私を釣りたきゃ高級マンションくらい寄越せってのよ」
「はいはい調子乗るな……いてっ」
「殴るわよ?」
「殴ってから言うなよ……」そして「藤林」の表札のかかっている家の前に着く。敷地の中に入り、玄関の前で杏を下ろした。
ありがとね、いや気にすんな、と別れの言葉を交わし、杏がドアノブに手をかけたところで何かを思い出したように振り向いた。「そういえばアンタ、前に一人暮らしするって言ってなかった?」
「ああ、もう大体交渉は済んでるから、初任給で入居するつもりだけど……急にどうした?」
「いや、ご飯とかどうするつもりなのかなーって」
「あー……さすがに入居すぐは金ないだろうし、自炊だな」
「……アンタ料理できたっけ?」
「……出来るぞ、うん」
「目を合わせて言いなさいよ……はぁ、ちょっと待ってなさい」そう言うと、杏は肩にかけたバッグに手を突っ込み、手帳を取り出した。首を傾げる朋也をよそに何事かを書き込むと、そのページを破り取って朋也へと突き出す。
受け取って見ると、11桁の数字とアルファベットと数字の組み合わせの羅列が書かれていた。「ケータイの電話番号とアドレス。アンタもケータイ買うんでしょ? 遠慮しないで電話してきなさい、ご飯くらい作ってあげるから」
「……マジか」
「マジよ。なに、嫌ならいいけど」
「なんつーか、その優しさが怖い―――いや、なんでもない。なんでもないからまず落ち着いて辞書を仕舞おうか」
「よろしい。人の厚意は大人しく受けとっておけばいいのよ」
「……ああ、なんつーか、ありがとな、杏」ひらひらとこちらに手を振り、ドアノブに再度手をかけようと背を向けた際に翻った紫の長い髪を見て、ふと思う。これでしばらく会わないことになるな、と。なんとなく、脈絡もなくそう思った。
あの馬鹿は田舎で就職、古河はどうなっているのか知らない。もう一人いた気がするが、朋也にはその二人を除く友人と呼べるのは杏くらいしかいない。俺友達いねぇなぁ、と苦笑を漏らしながら、ちょうどドアを開いたところだった杏に声をかけた。「杏」
「ん?」
「またな」
「……そうね、またね」最後にもう一度手を振り、今度こそドアの向こうに姿を消した。がちゃり、と音を立てて閉まったドアをしばらく見つめた後、ポケットに先ほど受け取った紙片をねじ込み、朋也は踵を返した。
「……何さらっと通い妻発言してんのよあたしはーっ! 朋也も、またな、じゃないわよっ! あーもーっ!」
ドア一枚を隔てた向こう側に赤面して悶える少女がいるとも知らずに。
――――――――――――
「で、なんであんなことをしたんだ?」
再び風子の後ろを追ってぼんやりと歩き回る朋也は、周りに誰もいないことを確認し、小さく、最小限に音量を絞って声をかける。先ほどまで空気と同化していた風子は、再び春を告げる作業に戻っていた。
あんなこと、とはもちろん杏への行い。その前まで見てきた春とは明らかに異質に感じられた。杏にとっては不幸でしかない出来事だったはずで、そんなものが春を告げることとはどうしても結びつかなかった。風子はそれにあらかじめ用意されていたかのように淀みなく答えた。「彼女にとってあれが春だったのです」
「あれが?」
「そうです。これで彼女はあと五年は闘えます」
「何だよ闘えるって」
「言葉のあやです。そうやって細かいことばかり気にしてたらハゲますよ」それ以上は何を聞いても企業秘密と言われた。
しかしまぁ、確かにパンを咥えて曲がり角でぶつかるってのも本人からしてみれば不幸でしかないわけだから、同じようなものだろうか。道に人が増えてきてこれ以上風子を問い詰めることもできないし。
朋也は考えるのをやめ、流されるままに生きることにした。
その後も春を告げ続ける。先ほどと同じように、
「春ですよー」
と木の前で言ってみればつぼみが膨らみ。
「春ですよー」
と適当に街中で言ってみれば、
「閃きましたっ、しかも大量に……これで古河春のパン祭りが開催できそうですっ」
不吉な声が井戸端会議の中から上がって(聞き覚えのある声だったが、朋也は無視した。進んで生贄になりに行く必要はない)ほかの主婦さんたちから思いとどまるよう説得されていたり。
「波留ですよー」
と公園前で言ってみれば、
「うおっ!? 何かキタ! 今なら打てる気がする……代打波留っ! こい、アッキー!」
「ふ、なめんな坊主がっ」激闘の狼煙が上がったりした。
今は春を告げた途端に始まった告白シーンを遠巻きに眺めているところ。
実は俺お前のことが好きなんだ駄目だよお兄ちゃん私たち兄妹だよ血はつながってないから問題ないだろ。
もはや何でもありだな、などと朋也がぼんやり考えていると、不意に風子が振り返った。「いけません」
確かに兄妹間の恋愛はいけないよな、と同意したいところではあるが、人目があるので黙っている。
「春分が不足してきました」
違ったようだ、風子にしてみれば兄妹間の恋愛なぞどうでもいいらしい。
それはともかく春分て何だろうか。「春分はあれです。糖分とかと同じです」
よくわからん、と表情筋をフル活用し言葉に出さないで意思の疎通を図る。道行く人が皆朋也を避けた。突然変な顔をし始めたのだから当然である。
「面白い顔をしてないで真面目に話を聞いて下さい。どうやらこの町には春分を抱え込んでる人がいるようです。その人からちょっと貰いに行きましょう」
面白い顔、などと言われたらひたすら無表情を保つしかない。
無表情のまま、方向転換した風子を追う。人には見えないって卑怯だよな、と朋也は心で泣いた。
――――――――――――
「で、やってきました学生寮」
だんだんと日は長くなっているとはいえ、空が赤らみ始める一歩手前の時間。二人は馴染みの高校の男子学生寮の入口の前に立っていた。
「ここに春を大量に抱え込んでる人がいます」
「あれ、アイツここにいるの?」
春、学生寮、一人占め。そのキーワードから連想されるのは名字からして春満点な男。
その三つの言葉からすぐに思いついてしまうのは失礼かもしれないが、彼は色々と春なのだから仕方ない。
「ええ、退寮の引っ越しのため、昨日から一度戻ってきているみたいです」
「……一応聞くけど、なんでそんなこと知ってるんだ?」
「春告精調査班が一晩でやってくれました」
「調査班ホントにどんだけだよ」
しかし、こっちにきてるなら声かけてくれればいいのに。こっちも暇だし。
朋也はそこまで考えて、家の電話番号などの連絡先は教えていないことに気付いた。友達というか悪友としか呼べないような奴だが、高校出たらハイ終わり、そんな軽い関係ではない。良い機会だし実家の電話番号でも聞いておくか。
などとなんとなくアンニュイに浸っている朋也を置いて風子は一人ずんずんと進み、学生寮の中へ侵入した。朋也も慌ててそれに続く。
二か月程度でそれほど大きく変わるはずはない。変わるはずはないのだが、朋也にはどこか知らないところに迷い込んだような錯覚を覚えた。
靴を脱いで先を行く風子の後を追う。
いや、変わってしまったのだろう。この場所が、ではなく彼自身が。
変わらないものなんてない。そう言ったのは誰だったか。自分自身だった気がするが、今はその言葉が捻くれた子供の開き直った言葉にしか思えなかった。高校と言う生ぬるい空間にはもういられない、さっさと社会に出て仕事しろこのニートが。
そう言われている気がして、現状ニートの朋也は一人で落ち込んだ。
風子はその間にも無遠慮に寮の中を突き進み、躊躇うことなく突き当たりの部屋に入って行った。朋也も後に続く。
「それにしてもお前って結構ふてぶてしいのな」
「何がですか?」
「や、人の部屋に無断で入ったりさ」
「春告精には緊急時における治外法権が認められています」
「ちゃんと意味わかって言ってるか?」
「本当に失礼な岡崎さんですね。ちゃんとわかってます、何やっても許されるということです」
「……あー、間違ってない、のか?」
風子の解釈に危機感を抱きつつ、後ろ手にドアを閉めて言葉を交わす。部屋に入っても何の反応もないということは、寝ているか、不在であるか。また、この時間は部活の真っ最中だろうから傍目には一人でしゃべっているように見える風子との会話を聞かれて可哀そうな子だと思われる心配もない。
部屋に入ってまず目に着いたのは、山積みされた段ボール箱。その奥に、備え付けの木製のベッドの上で布団も敷かずに体を丸めて眠る黒髪の男がいた。
今話題の春原陽平その人である。
風子は段ボール箱の陰で眠る彼を見つけるとおもむろに歩み寄り、ベッドのすぐ脇に立った。
「それでは春分吸引を始めます。岡崎さん、黙ってて下さいね」
「あいよ」
そして始まる春分吸引。ぼう、と風子の体が光り始める。
にゅるっにゅるっにゅるっにゅるっにゅるっにゅるっ。
「え、何この不思議擬音」
突っ込みたかった。突っ込みたかったが、先ほど言われた言葉を思い出し、慌てて口を噤む。
にゅるっにゅるっにゅるっにゅるっにゅるっにゅるっにゅるっチーン。
「ふう、完了しました。というか岡崎さんっ、途中で何か言いましたねっ」
「いやだってお前、にゅるっはねぇよ。にゅるっ、は」
「そんなことはどうでもいいんです、おかげで加減を間違えましたっ。最悪ですっ」
「加減間違えたって……いや、別に構わないか」
春原だし。
「で、加減間違えるとどうなるんだ?」
「まぁ、起こしてみればわかります」
そう言って風子は一歩下がる。朋也は意図を察し、風子に代わってベッド脇に立って眠り続ける彼に手を伸ばす。
「起きろクソボケぇ!」
そして、思いっきり殴った。
しかし、朋也は違和感を覚える。いつもならオーバーリアクションともとれるほどの反応で跳び起きるものなのだが、どうも今回は目覚めが悪い。
いかん、しばらく殴ってないから勘が鈍ったか。一人訝しんでいると、ベッドの彼が体を起こした。
「ふぁ……あ……ん? やぁ、岡崎じゃないか。こんな朝早くにどうしたんだ?」
朝早くねぇよもう夕方間近だよ。しかしあまりの春の抜けっぷりに声が出ない。
「それにしても久しぶりだね。二ヵ月ぶり、ぐらいかな?」
ああそうだな。しかし声が出ない。
「……岡崎? 何を黙ってるんだい?」
何をって言うか……。しかし声が出ない。
「あ、久しぶりだから何しゃべったらいいかわからないとか? ははっ、岡崎はシャイだなぐほぁっ!」
とりあえず殴った。力の限り。当然のように彼は再び眠りの世界へと旅立っていった。
「やっべ、マジキショい。キモいじゃなくてキショい! 鳥肌立ったじゃねえか! 風子!」
「何ですか?」
風子はしれっとしている。
「何ですか、じゃねえ! 春原を今すぐ元に戻せ!」
「春原? 誰ですかそれは」
「とぼけんな! コイツだよコイツ!」
「いいえ、彼は春原さんではありません。原さんです」
「……なんだと?」
「まったく、さっきも言ったじゃないですか。春を大量に抱え込んでる、と」
やれやれと肩をすくめ、首を振る。まさか、と段ボール箱に貼ってある宅急便の伝票、そこに書いてあった宛名を見る。確かに原陽平になっていた。今日一番の驚きだ。春ってこんなとこまでもか。春告精の本気を見た。
「いやいやいや、どうしてくれんだこれ。原って呼びにくいだろ。春原だから呼びやすいんだよ。すの、で貯めて一気にはら、で吐くんだ。わかるだろ? ほら言ってみろ、スノハラァッ!」
「さっぱりです。訳わかんないこと言ってないで行きましょう。もう用は済みました」
「オゥ……」
天を仰ぐ。シミの残る汚い天井しか見えない。
しかしこれくらいで引き下がるわけにはいかない。さすがにさっきのアレはキショすぎる。せめてその程度の春分は戻してほしい。
「いや、実際マジ頼む。さっきのはキツ過ぎだろ……いやホントに」
「……仕方ないですね。確かに余分に取りすぎた感はありますし、一応春分の再計算をしてみます」
言うなり、風子は朋也に背を向けた。計算中なのだろうか、小さく羽根が揺れ動き、ぶつぶつと何か言っているのが聞こえる。
やることもないのでピコピコと動く羽根を眺めながら、しばらく朋也は待った。
「でました、多少なら問題なさそうですね。わかりました、戻しましょう」
原に向かって手を伸ばし、先ほどのシーンの焼き直しのように発光を始める。
みゅーんみゅーんみゅーんみゅーんみゅーんみゅーん。
突っ込むのも疲れた。
みゅーんみゅーんみゅーんみゅーんみゅーんみゅーんチーン。
「終わりました。どうぞ」
「おう、じゃあさっそく。起きろ春原ぁ!」
「げぶらっ!? いきなり誰だよ!」
「俺だ」
「岡崎かよ!」
そのリアクションを見て、朋也は心底安心した。ああ、いつもの春原だ、と。
「そしてお前は?」
「春原陽平っ! ピチピチの18歳さっ」
「ピチピチっつかビチビチって感じだけどな」
「魚かよっ!」
「つまらんツッコミだ……」
そしてもう一つの懸念事項、名前についても元に戻っていた。
「……てゆーかさ、なんで岡崎がいるの? こっち来てるって知らせたっけ? あ、もしかして僕が恋しくて毎日ここに来てたとか? ははっ、ホントに岡崎はツンデレぐほっ」
「死ね」
さらに、脳内については春だろうが春でなかろうが関係ないらしい。
昏倒した春原を放置し、二人は部屋を出た。その際に宅急便の伝票に書かれた春原家の電話番号をメモしておくのも忘れない。
「ツンデレですね」
「……うっせ」
ドア越しに、じゃあな、と呟いたところで突っ込まれる。
どうにも否定できなかった。
廊下をてくてく歩いている際に朋也は少々気になったことを尋ねた。
先ほどの春原は完全にいつも通り。春分とやらの補給が目的だったのに、そこまで返してしまった平気だったのか、ということ。
それに対する風子の答えは単純。もともと彼は膨大な量の春分を保有しており、多少戻しても平気だということだ。春爛漫すぎる。流石春原。
玄関に着いた。靴を履いてつま先で地面をけっていると、背後から声が掛った。
「あれ、岡崎じゃない。何してたの……って、目的は決まってるか」
「ああ、美佐江さんか、久しぶり」
「はい、久しぶり」
猫を両手で抱え、にこりと笑みを朋也に向ける寮母、相良美佐江。エプロンをつけていないところを見るに、自室で休憩中だったと思われる。しかし、奥の部屋で寝ている春原以外誰もいないはずの寮の中で物音がすれば気にならないはずがない。このタイミングで出てきたのにはそういった経緯があるのだろう。
笑みを浮かべていたものの、それはすぐに呆れの表情に変わった。
「にしても、アンタ卒業したんだから無断で入るんじゃないの。もう部外者なのわかってる?」
「いいじゃん、別に」
「よくないわよ。こっちにも不審者が侵入したら報告する義務があるんだから」
「そこはほら、俺と美佐江さんの仲だし?」
「残念ながらねぇ……はぁ。ま、春原も出て行くからアンタがここに来ることなんてまずないだろうけど、来るなら次からは一声かけなさいな。ついでにお茶の一杯くらい出してあげるわよ」
「……やけに親切だな」
「アンタもこれからは毎日来るわけじゃないんだから、そのくらいはね」
そこで朋也は服の裾を引っ張られていることに気付いた。ちらりと見てみれば、風子が相変わらずの何を考えているのかわからない表情で裾を握っている。早くいこう、という合図だろう。
「ん、じゃあまた来るよ。美佐江さんのお茶を楽しみにして」
「はいはい。それじゃ、アンタも仕事頑張んなさい」
「美佐江さんもな」
別れの挨拶を交わし、猫の手を握って振らせている美佐江に和みつつ寮を後にする。
落ち着いたら話でもしに来よう、と朋也は思った。
「美佐江さんと話してる間だんまりだったけど、美佐江さんにはアレやらなくて良かったのか?」
寮を出た後はまた風子の背中を追って街中を歩く。歩きながら周りを見て、誰もいないことを確認してから問いかける。春ですよー、という言葉をあまり言わなくなっている所を見るに、もうそろそろ終わりなのかもしれない。
「アレ、とかばっかり言ってるとボケますよ」
「……春ですよー、ってやつだよ」
「彼女には既に春は来たので必要ありません」
「ふーん……」
朋也は内心首を傾げた。
今日の経験から見るに、人間に関係する春とやらは色恋絡み。杏のはよくわからんかったが。
美佐江さんは男日照りにもいい所だったはず。行き遅れに片足を突っ込みかけてる人物だ。それともいつの間にやら彼氏でもできたのだろうか。今度聞いてみるとしよう。
本人が聞いたら間違いなく怒ることを平然とした顔で考える。そこで補足するように風子が呟く。
「本人が気付く、気付かないにかかわらず、です」
「……?」
「灯台モトクラシー、というやつですね」
「下暗し、な」
要するに、美佐江さんの身近な所にチャンスやきっかけは転がっているが気付いていない、と。
朋也は脳内にある美佐江の情報を洗ってみたが、特に思い当たる節はなかった。たしか猫は雄だった、ということは思い出したがさすがに猫はないだろうと苦笑を漏らす。
考え事をしているうちに離されてしまったようで、風子がしばらく先の曲がり角で朋也を待っている。朋也は慌てて駈け出した。
――――――――――――
その後も色々回り、結局辿り着いたのは朋也が通っていた高校の正門前の坂、その下だった。
なんで寮の次に来なかったんだ、と聞いてみたが、どうやらここが最後でなければならないらしい。よくわからないがこいつが言うならそうなんだろう。朋也は風子の隣に立って長々と続く坂を下から見上げていた。
「もう少し歩きましょうか」
返事も聞かずに歩きだす。朋也の方もこの一日で風子の言動にすっかり慣れてしまったようで、特に文句も言わずに黙って後ろに着き従った。
卒業式の時は周りに人が多すぎてさっさと帰ってしまったが、今は彼と風子の二人だけ。思い出に浸るのを邪魔する者はいない。ほんの二か月前まで毎日歩いていた坂道を歩きながら思いだす。
一年の頃。何をするにも面白くなく、苛々して物や人に当たる毎日。そういえば春原に初めて会ったのもこの時か。
二年の頃。基本的なスタンスはあまり変わらなかったが、杏という友人が出来た分、少しだけ騒がしさが増した。
そして三年。この坂の下で会った古河。それもこの春という季節だったか。演劇部を作りたいと言う彼女の願いを、何の気まぐれか手伝ったが、結局だめだった。古河の恩師だという公子さんの結婚式の手伝いもやった。その旦那が来月から上司になると言うのだから、全く世界は狭い。そのほかにも古河と廊下を走り回ったりした記憶があるが、前後関係がはっきりしない。古河は夏以降疎遠になってしまったが、元気にやっているだろうか。
ともあれ、一、二年の頃と比べたらとんでもなくあわただしい毎日だった事は間違いない。
そこまで考えたところで、待て、と朋也は自問する。
そういえば、なぜ公子さんの結婚式の手伝いをした? 古河繋がり? いや、そもそもどうして古河の恩師、などという遠い人物と知り合うことになったのか。それに、所々妙な記憶がある。誰もいない教室に向かって声をかけていたり、誰かを男子トイレに引きずり込んだり。
朋也の頭に鋭い痛みが走る。ぐあ、と声を漏らして頭を抱えたが、すぐに消え去った。そして、先ほどまで考えていたはずのことも消え去った。
「岡崎さん」
唐突に走った痛みに抱えていた頭を上げてみれば、いつの間に歩いていたのか坂道の中腹辺りまで来ており、そこで二、三歩先に風子が足を止め、朋也に向き直っていた。相変わらずその表情は何を考えているのかわからない。
「ありがとうございました」
そう言ってぺこりと頭を下げる。朋也はあっけにとられたが、すぐに我に返って言葉を返す。
「……いや、気にすんな。良い暇つぶしになった」
珍しいものも見れたし、本当はなんだかんだ楽しんでいたのだが、こういった時に素直になれないのが岡崎朋也がツンデレと呼ばれる所以である。誤魔化すような笑みを浮かべ、軽く手を振った。
「では、これを……」
「……あー、ありがとう?」
朋也の言葉を受け取った風子は頭を上げ、彼に近寄って一日中手放さなかったヒトデの彫り物を手渡した。その表情は至って真面目である。対する朋也も困ったように頬を掻きながらも、拒絶はしなかった。
「むっ、その反応は何ですかっ。もっと嬉しそうにしてくださいっ」
「いや、うん、ありがとう」
「最悪ですっ、色々言いたいことがあるのに時間が足りませんっ。ヒトデの良さを語るのはまたの機会にしますっ」
覚えておいてくださいっ。そう言うと、また距離を離して朋也と向き合う。そして、こほんと咳払いを一つ、もう一度頭を下げた。
「本当にありがとうございました」
「や、もういいって。そんな感謝されるようなことはしてない」
「いえ、今日のことではなく、今までのことです。お礼はあれだけでは足りません」
「……つっ!?」
再度下げられた頭に戸惑いながら何のことか考えていると、再度頭に走る痛み。なんなんだろうか、と朋也が訝しんでいるうちに、風子はさらに距離を離していた。そして、彼女は口を開く。大きくはないが、不思議と通る声だった。
「これは、そっちのお礼です。岡崎さん達にも春を。大増量サービスです」
と、四肢を広げ、大きく息を吸い込んだ。
「春ですよー!」
ざ、と一陣の風が吹く。
校門に続く坂道の脇に植えられた桜たち、その枝に着いていたつぼみが大きく膨らんだかと思うとすぐに弾け、中から桃色の花弁が顔を出す。世界は桜色に包まれ、風子と朋也を切り取った。
「これは……すごいな」
すごい。朋也はその言葉しか思いつかなかった。風に吹かれつつも花びらは飛んで行かず、若々しく、瑞々しい生命力にあふれている。朋也は今まさに春を体感していた。
「岡崎さん」
突然変わった世界に見とれ、絶句している朋也に風子が声をかけた。
「ん、ああ。こりゃ素直にすごいな。さすが春告精、といったところか?」
上機嫌に笑いかけながらも、きょろきょろと視線はあちこちを飛び回っている。風子はその様子をただじっと見つめ、待つ。
しばらく後、やっと落ち着いた朋也は黙っていた風子に声をかける。その声色には喜色が表れていた。
「こんなものを見れるなんてな。こっちこそサンキュ、だな」
「それは何よりです……さて、岡崎さん。そろそろお別れです」
その言葉に朋也は眉を顰める。
たった一日の付き合いではあったが、されど一日。朋也は、妖精の一種である彼女との出会いは一種の奇跡のようなものだと思っている。だとすれば、そう簡単に再会できるようなことはないだろう。
そう思うと、朋也は胸に締め付けられるような痛みを覚える。その痛みの原因は今日一日で育まれた物ではないのだが、朋也は気付けない。
「……どうしても、か?」
「ええ、この体は春の大妖精さんから力を貰って存在しているだけのものなので。残り時間もほとんどありません」
「……そっか」
「……はっ、そんなに悲しむということはもしかしてっ!」
しんみりと別れを悲しんでいると、風子が雰囲気にそぐわない素っ頓狂な声を上げた。朋也は首を傾げ、風子を見つめる。
「岡崎さん、風子に惚れましたかっ」
「ねえよ」
即答。
「ご近所でもナイスバディで有名な風子のことです。惚れてしまうのもわかりますが、今の風子は春告精なのです。申し訳ありませんが、岡崎さんの気持ちは受け取れません」
「聞けよ。つかなんで勘違いされた上に振られてんの俺。泣くぞコノヤロウ」
「と、冗談はここまでにして」
混乱したようにわたわたさせていた両手をおろし、しれっとした表情を作る。朋也はその様子を見て肩を落とした。
が、それも一瞬のこと。胸の前で手を組み、その手を抱いて祈るように呟く。朋也は呆気にとられたようにそれを見ていた。
「大丈夫です、岡崎さん。また会えます。必ず」
風に乗って届いたその声には、確かな確信があった。
朋也はどこか神々しいものを見ているような感覚に襲われ、口を開くことが出来なかった。その光景を自分の手で壊すことが忍びなかったのだろう。
しかし、その時はすぐにやってきた。
「お、おい、風子……」
「……いよいよ時間みたいですね」
風子の足下から光の玉が立ち昇っている。
足首、膝、腿と下から順に光の玉となっていく。朋也はその様子を見ているしかできない。そんな朋也をよそに、風子はもう一度、先ほどより深く頭を下げた。
「それでは岡崎さん、本当にありがとうございました。このご恩は忘れません」
そして顔を上げる。その表情は、この日朋也が初めて見た満面の笑みだった。
その笑顔に再び、胸に、頭に締め付けられたような痛みが走る。
桜、ヒトデの彫り物、あの笑顔。
そして、朋也は気付いた。
「風子ぉっ!」
朋也は無意識のうちに叫んでいた。そして駆けだす。
使われていない教室に一人佇み、手を傷だらけにしながら彫刻刀を握る少女。彫り終わったそれを配るため、古河と共に校内を駆けまわり、受け取ってもらえると口では「まだまだこんなもんじゃ駄目です」などと言いながらも弛む口元が微笑ましかった少女。
そして、彼女の姉の結婚式。本当に嬉しそうな、満開の笑みで星型の彫り物を渡し、そのまま桜吹雪と共に消えてしまった少女。
その叫びを聞いて、風子は驚いたような顔をしたが、それも一瞬のこと。先ほどの笑みとは質の違う、優しい頬笑みを浮かべ、口を開いた。
―――ありがとうございます。では、また。
その刹那、ひときわ大きな風が吹いた。少し遅めの春一番、といったところだろうか。朋也も耐えきれずに顔を手で庇い、風が止むのを待つ。
そして風が止み、手を下ろしてみると彼の目の前にはだれもいなくなっていた。
「……?」
しかし、朋也にはだれもいなくなっていた、ということすらもわからなかった。あるのはただ空虚感のみ。
何故か痛む胸を押さえながら辺りを見回す。そこは桜色の世界。
ああ、そういえば散歩の途中だったな、と朋也は手を叩こうとして、その手に何か持っていることに気付いた。
「……ヒトデ?」
それは星型の彫り物。他の人が見れば大体が星、と答えるだろう。にも関わらず、朋也にはこれがヒトデを象ったものだという確信があった。
いつの間に、それに誰にもらったのだろうか。朋也はいまいちはっきりしない自身の行動を訝しみつつ、妙に疲れてるし帰って寝よう、と踵を返した。
そして、坂の登り口で懐かしい人物と鉢合わせた。
「古河?」
「……あっ、岡崎さん」
それは、一年ほど前に演劇部発足をともに目指したものの結局挫折してしまった、古河渚。
声をかけると、栗色の特徴的な髪を揺らし、この桜色の世界に入りこんだ意識を引き戻して朋也に駆け寄る。朋也の一歩手前まで来ると息を整えながら深々とお辞儀した。
「お久しぶりです、岡崎さん」
「ああ、久しぶりだな、古河。どうしてこんなところに?」
「えと、なんだか来なきゃいけないような気がして……って、岡崎さん、どうしたんですか?」
「ん? なにがだ?」
「岡崎さん泣いてますっ」
慌てたような古河の指摘に、朋也は自身の頬をなぞった。すると、確かに指には水滴が付いていた。
しかし、心当たりがない。なんでか胸が痛い気がするが、それとは関係ないだろう。朋也は、適当な理由をつけて誤魔化すことにした。
「ああ、さっきすごい風でな。目にゴミが」
「目にゴミが入ったって量でもない気がします」
「じゃあ、花粉症。どっちにしても大したことじゃないから気にすんな」
「……そうですか?」
古河は納得していないようだったが、朋也の様子は本当に陰がないことに気付いて引き下がった。
ポケットティッシュを差し出し、朋也は一言礼を言って受け取る。
やがて涙も止まる。朋也は今一度礼を言い、少し量の減ったポケットティッシュを返した。
「ん、もう止まった。サンキュな」
「いえ」
「……」
「……」
なんとなくお互いに声をかけにくく、沈黙が落ちる。部活動の掛け声も聞こえず、桜の花々のざわめきのみが辺りを支配していた。
「そっ、そういえばっ」
沈黙を破ったのは、古河の方だった。
「なっ、なんだ」
「その手に持ってるの……ヒトデですか?」
「ああ、やっぱり古河もそう思うか」
普通の人間だったら星だと思うはずなんだがなぁ、と自分のことを含めて苦笑いを浮かべる。しかし、どうしても星だとは思えなかった。そしてさらに胸も疼き始めた。
その事実に、ううむなぜだろうか、と朋也が悩み始めてしまったため、再び沈黙。
「……」
「……」
「そっ、そういえばっ」
沈黙を破ったのは、やはり古河の方だった。
「なっ、なんだ」
「ここだけ桜咲くのが早いですね。なんででしょう」
「……さぁな」
古河の言葉に反応するように朋也の胸が疼いた。先ほどの疼きと相まって、少々息苦しさすら覚える。
こりゃ体調悪いのかもな、と考えつつも、朋也は何故か帰って休もうとは思いつかなかった。
「異常気象とかそんな感じじゃね?」
「ここピンポイントでですかっ」
「そうなるとテレビ局とか来るかもな。異常気象の極みだ、とか言って。インタビューされたらどうする?」
とりあえず、その息苦しさも耐えられないほどでもない。話でもしているうちに忘れるだろう、と久々に会った友人との会話に花を咲かせることにする。
「えと、私がインタビューなんてそんな、恐れ多いですっ」
「恐れ多いって……そう言えばお前、そんな奴だったな」
「はい……すみません」
「別に謝ることじゃないだろう」
相変わらずの様子に苦笑が漏れる。と、相変わらず、で朋也は思い出した。四月の中旬に初めて坂の下で会い、あんパン、と自らを鼓舞していたこと。しばらく自分が一緒に登ってやっていたが、顔を合わせなくなってしまってからも相変わらずその調子だったのだろうか。
「そういえば、しばらく顔見なかったけど一人でここ登れるようになったか?」
「……ずっと休んでたんです」
「……?」
「九月から、体調を崩してしまって。それで、もう一年通うことになりました」
「……初耳なんだが」
「余計な心配かけたくないと思ってお父さんとお母さんにも黙っててもらいました……すみません」
「だから、謝るなって」
こんなところまで相変わらずか。朋也はがしがしと頭を掻いた。
「まったく、相変わらずだな、お前」
「すみません……」
「だから謝るなと……まぁいいや、行くぞ」
「え?」
「だから、坂。登ってみようぜ」
きょとんとした顔をしている古河を見て、我ながら似合わないことをしていると思う。
それに、なんでこんなことをしているのかよくわからない。昔なら、頑張れ、の一言で済ませているだろうに。
「練習だと思ってさ。今日だけは一緒に行ってやるから」
赤くなっているだろう顔を見られたくなくて、朋也はまだ現状を理解していない古河を置き去りにして、登り始めた。
しばらく歩いていると、小走りで古河が近づいて横に並んだ。そのまま、特に何も言わずに桜色の世界の中を歩き続ける。
ああ、そういえば初めてこいつに会った時もこんくらい桜が咲いていたな。あのときは確か桜吹雪だったが。
懐かしさを感じながら、歩く。そんな中、古河が唐突に足を止め、口を開いた。
「あの」
「ん?」
それだけ声をかけると、口ごもって俯いてしまう。朋也は二、三歩離れたところでその様子を訝しげに見ていた。
そして、深呼吸したかと思うと、うぐいすぱんっ、と自分を鼓舞して、きっと朋也を見据えた。
「その……また、この坂を一緒に登ってくれませんかっ」
「は? 別に構わんが」
それは彼女にしてみれば一大決心をして発した言葉だっただろうが、朋也からしてみれば別にそんなこと、レベルのことである。それに、知り合ってしばらくは一緒に坂を登っていたりもしたのだ。動じることでもない。
「……いいんですか?」
「さすがに平日は無理だろうがな。休日、練習に付き合うぐらいなら。でも、いつか一人で登れるようにならなきゃだめだぞ」
「それでも構いませんっ、もちろんですっ」
ありがとうございます、と頭を下げる彼女に苦笑気味に手を振り、背を向けて歩きだす。しばらく歩いていると、古河も追い付いて並んだ。
二人分の足音が響くが、すぐに風が持ち去って行く。どこか現実感のない桜色の世界を歩く一組の男女は、まるでそれが無粋なことだとでも言うように言葉を発さず、ただ歩いている。男は女を気遣いゆっくりと。女は男の迷惑になるまいと出来るだけ速く。
その二人の手は、いつの間にか繋がれていた。
Fin.
――――――――――――
あとがき。
春ですよ。
そんな話。
こちらでははじめまして。らすぼすです、こんにちは。ここまで読んでくださってありがとうございます。
今回はこちらの管理人様、クロイ≠レイ様のご厚意に甘えまして春祭りに参加させていただく運びとなりました。いつもお世話になっている熊野日置様を介した間接的な繋がりにも関わらず、掲載を快く承諾して下さった事をこの場を借りてお礼申し上げます。本当にありがとうございました。そして遅くなりまして申し訳ありません。
それではまた機会がありましたらお会いしましょう。ではでは。
2010/5/1 らすぼす。